史料に見る有鹿神社の神職

水引祭での祭祀の様子

有鹿神社の神職について触れられている史料を見てみると【鷹倉社寺考】(34P)に
鶴岡八幡神社職事大伴家古文ニ「当国下海老名郷領家、有鹿神社主、山崎山城守時光」将軍家神供料御寄進ノ古文ヲ蔵セリ。
とあるが、この大伴家古文を未確認であるので調査中とする。
ただし、下海老名郷という記述を見ると、鎌倉、室町時代以降のことであると思われる。

次に【海老名市史7通史編近世】(638P)に井上主計(かずえ)と加藤頼母(たのも)という名前が出てきます。明治元年(1868)に神仏分離令が出された後、有鹿神社別当、総持院龍海と檀家、総代、福寿院、河原口名主の連名で「龍海が復飾するところであるが、総持院には十六の末寺を抱え、檀家もあるので、有鹿神社の別当職を離れるのみとし、弟子の隆寛房を井上主計と改名して神職として務めさせたい」という願書を提出した。しかし、長年有鹿神社の神事に関与していたという加藤頼母が反対し、紛争が起きたという。
最終的には井上主計(隆寛房)、加藤頼母、共に退役して、加藤頼母の子が井上主計の名前を継ぐ形で神主になることで内済した。これはすでに神奈川県に有鹿神社の神職は井上主計で提出してあったためであった。
神職井上家は大正、昭和初期まで続き、大正二年には横須賀水道工事に伴う有鹿神社の土地登録抹消申請書【海老名市史4資料編近代】(494p)が提出され井上多満喜が社々司となっていること、また昭和に入って【海老名市史5資料編現代】(322P)の高座郡神職会事業報告から分かる。
「昭和14年1月4日 郷社有鹿神社々司井上多満喜氏葬儀執行ニツキ会長会葬ス」
しかし、戦後、昭和26年、宗教法人令に代わって「宗教法人法」が制定された後には変化がありました。有鹿神社の宗教法人としての設立登記は昭和28年8月1日にされており、昭和29年版の【神奈川県宗教法人名簿】には代表者に真下和助とある。
昭和32年は同じく真下和助氏、昭和35年は真下宮治氏、昭和37、39年は真下和助氏となり、昭和41、43年は真下宮治氏となっている。
昭和43年発行の【神奈川県民俗調査報告1】(96P)には大山阿夫利神社から神職を頼んでいる、と書かれており、同時期の神奈川県宗教法人名簿に載っている教派神道「大山阿夫利神社本庁真下教会」に神職を頼んでいた可能性が高い。

昭和46年からは小島重治宮司。すでに昭和43年から弥生神社で宮司(本務)を務めていた小島重治氏は昭和60年まで有鹿神社宮司を務めていた。
昭和63年には小島庸和宮司となり、現在も弁理士であり、大学で教鞭を執り、そして宮司として神事を執り行っている。

また、近年、有鹿神社と言えばパンダ宮司を忘れてはならない。
が、これはまた別の記事で書くことにしましょう。

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