三眼六足稲荷と有鹿岡

三眼六足稲荷

有鹿神社本宮から南に約800メートルほどにある安養院の末社、三眼六足稲荷神社にはイナゴの災害から田畑を守った白狐伝説が伝わっています。
【相模惣国風土記残欠】を引用すると以下のようにある。
有鹿岡 有社之南。出怪巌。常有数尾之白狐。土貢逢蝗蟹之災之時。白狐変田夫其災。如神。土俗崇之如神。
【鷹倉社寺考】(39p)の安養院の項には「稲荷社、有鹿明神ノ使姫白狐ヲ祀ルト伝フ」とあり、有鹿神社の使姫(つかわしめ)であったという。

また、境内の石碑にも縁起文があるので一部を引用する。
(前文略)平安の頃から相模二十三座の式内社として有鹿岡に鎮座し延喜式内有鹿神社の霊域で其舊蹟は今も尚當院境内に一堆の浄域を存す 往昔この岡に年久しく棲み馴れし白狐あり 常に郷中の田園を守護し時に姿を農夫に化身し諸所の障害を驅除し數々の竒特を具現せり里民その神變不可思議を神使と感得し畏敬の念を岡邊に集ひて祠を建て稻荷明神と奉祀した(中略)
鎌倉時代地頭海老名尾張守李貞深く信仰し累代守護所と崇め三貫六百文の神田を捧げ加て祭祀を厚くす 降って寛永年間格雲守存 大和尚當院開山に念し右稲荷明神を境内鎮守と仰ぎ即ち稲荷山安養院と號す 其後文化十年山城國紀伊郡稻荷本宮より分霊を奉載し 社格を正一位に進め奉る(後略)
相模二十三座は「十三座」の間違い
この縁起の海老名李貞から捧げられた三貫六百文の神田から、三眼六足稲荷と呼ばれるようになったという。
【海老名の史跡探訪】(54p)にはこの海老名李貞と白狐のエピソードが言伝として紹介されている。
(前文略)境内には三眼六足稲荷があり、この縁起は古く、言伝によればその昔、頼朝富士の牧狩の時、一匹の白狐を射止んとした。その白狐手を合せて助けを求めんが有様に、海老名源八これをもらい受け有鹿丘に救う。
以来郷中の田園を守護し、時には農夫に姿を変えたりして各種の災を除くなど数々。里人神の使いとして祠を建て稲荷大明神として祀ったそうな(後文略)

有鹿岡

では、白狐が棲み、三眼六足稲荷が祀られたという有鹿岡とは何なのか。
有鹿神社の小島宮司が著した【お有鹿様と水引祭】(34p)には「有鹿神社の創建に係わる有力者を埋葬した古墳といわれている」とありますが、現在、その場所は安養院で、古墳ような地形は見当たらなくなっています。
実は昭和34年に発掘調査されています。海老名市立歴史資料収蔵館で見せていただいた資料では有鹿岡の規模が「東西6~7メートル、南北7~8メートル、高さ1メートル」で出土したのは「200個ほどの一宇一経石」であったということがわかりました。ですが、近世以前の情報は得られず、経塚であったことはわかったものの、それが古墳上にあったかどうかはわかりませんでした。

有鹿岡にある三眼六足稲荷舊跡

ところで、この安養院でヘラジカの化石が見つかっています。
ネットですと、有鹿岡で見つかったという話が出てくるようですが、実際は昭和12年ごろに安養院の裏の堤防が水害被害にあったときに、堤防の地下2メートルからヘラジカの角の一部の化石を住職が見つけたのだとか。【広報えびな 平成12年10月1日号】
有鹿岡で見つかったと表現するよりは、河原口堤(自然堤防に人の手が加えられた堤)で見つかったと言うほうがいいのかもしれませんが、この自然堤防のことを有鹿丘と呼ぶという話もありますので、それはまた別の記事で書きたいと思います。

安養院にあるヘラジカ化石レプリカ


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